人とつながること。
1997年7月、大阪阿倍野の
アポロビル前にて、打ち上げで
大騒ぎしている様子。
2007年10月、大阪よみうり
文化ホールのロビーにて。
僕の娘役の女の子と。
2007年7月、大阪の森ノ宮
プラネットホールにて上演され
た『黙禱』より。猫です。
2018年3月、札幌市内の
稽古場にて『ハムレット』の
自主稽古の最中のスナップ。
これはもう絶望的な話になるけれど、僕には人徳がまるでない。人が苦手で何ならもう私は貝になりたいフランキー堺くらいなのだから悲観のしようもないが、そんな僕でもそれこそ人から好かれたいし、褒められたいものだから厄介だ。むー、成人レベルが年齢にまったく追いついていない。その証拠に、さんざん稽古が苦手だの、コミュニケーションが取れないだの嘆いていても、僕が今、自ら望んでお芝居をしているのは事実なんだし。やっぱりそこには幼少期、そして大阪での経験を通して現在に至るまで、素敵でリスペクトできる先輩や後輩、仲間と呼べる方々との出会いがあった。先方にどう思われているかは恐ろしくて想像もしたくないけれど、それでも世界で5本の指に入るネガティブさんではないかと自負する僕にとっての長所といえば、パクチー以外は食べ物の好き嫌いがないことと、ギャンブルをしないこと(人生は完全に負け組ですが)、それからもうひとつ、こんな僕でも誇れる素晴らしい出会いに恵まれたことなのだ。うん、この際パクチーとお友達になることを諦めても、それだけは揺るがない。
さて、その貴重な出会いを通して、果たして僕は少しでも成長できたのでしょうか? それとも、ただ単にだらしなくお酒に溺れていただけなのでしょうか? そして僕は今誰に質問してるんでしょうか? 何だかよく分からないがときどき刹那にそんなことを考えて、無性に不安にしばられることがある。
過ぎた日は二度と戻らない。過去に依存していても仕方がない。それはもう分かり過ぎるくらい分かっていることなんだけれど、過去が財産であることも事実だ。その財産を活かしてこれからのお芝居や、人としての成長につなげていけるかが大切なのだ。と、健気に自分に言い聞かしてもみる。
ただ、先述の通り僕にはまるで人徳がない。勇気がない。行動力がない。引率力もない。金銭感覚もおかしいし、そもそも怠け者だ。すぐに根をあげる。根性がない。甲斐性がない。人生においてことごとくタイミングを外す。空気が読めない。意志も弱い。酔うと話が長い。猛暑で卒倒すれば水風呂で気絶する。これまで人の助けを借りずに生きて来れた試しがないのだ。
はい、こうやって自らを嘆くのもどこかズレている。何というか、イタい奴。そんな僕だから人徳がないのだ。なのにどうして、こんな僕にこれだけの出会いがあったのだろう。お芝居に限らずだけだけれど、助けやチャンスをくれる人がいたのだろう。考えても分からないことは考えないことにしているダメなオトナだ。
でも、これだけは言えるのだ。これからはそうもいかない。気がつけば僕も40半ば、いつまでも誰かに助けてもらっている場合じゃない。ポジティブとまでは言わないけれど、せめて「人並みの」ネガティブさでいい。それくらいは持たなければ。
さてそのためには、まずはお芝居で結果出さなきゃダメか。これはアタマが痛い。
結果を出してない割に、しつこいけれど僕は人との出会いに恵まれている。役者仲間はもちろん、演出家や作家さんを始めとしてお芝居に関わるスタッフの方々、音楽や美術、映像、写真や工芸からアマチュア落語に至るまで、幅広い芸術各分野で自己表現に取り組むたくさんのアーティストの方々と知り合ってきた。いずれも人から人へ、お芝居という文字通りのステージを通して出会った貴重な経験だ。これは、一時お酒に溺れていた僕なんかにはもったいないものですよ。
大阪で『劇団自由派DNA』に所属していた頃は、特に新鮮な出会いの連続だった。劇団内で公演ごとにオーディションを実施していたため、若い劇団員に役がつかないこともままある厳しい集団だった。そのため、舞台に立てるようになるまで懸命に努力する後輩の姿を目の当たりにして、自分自身も改めて気を引き締め直したものだ。ここではお芝居に本物の舞妓さんを登場させたり、奇跡的にお借りできた文楽人形を扱ったり(貴重!)、小劇場では当時まだ珍しかった地方公演で福岡へ行ったりと、その度に素敵な出会いがあった。もっともろくにまともな仕事をしていなかった僕は、お芝居を通してでしか人とつながることができなかったのだけれど。
この劇団で僕は、とある先輩と知り合った。僕より9歳も離れた音響や音楽を担当する方だ。元々はドラムを叩くミュージシャンで、劇団の公演の音響プランやオペレーション以外にも、作曲やボーカルもこなすマルチな人だ。ただ人間バランスが取れたもので、どうしようもないくらいの酒飲みで、飲むとどうしようもないほどぐだぐだになった。それでもお互いにまだ若かったこともあり、この方とは死ぬほど一緒にお酒を飲んだ。
もちろんそればかりではない。その先輩からはとてもたくさんのことを教わり、そして助けていただいた。食事に飲み誘ってくれるのはもう日常茶飯事だったが、その都度「次はお前が後輩に出したったらええ」とカッコいい言葉で財布を出す。仕事もお金もなくて困窮していたときはアルバイトを紹介してくれたり、大阪で暮らした末期には「俺の部屋の片づけを手伝ってくれたら日給出すで」と無理から仕事をくれたりもした。稽古をあれほど見てるのに、本番中に感極まって泣きながら音響卓を操作しているような、笑えるほど涙もろい人でもあった。住むところに困っていた頃、わずかな期間だけど谷町6丁目にあったマンション地下の稽古場で生活を共にしたこともあった。回らないお寿司に連れて行ってくれたのも、ミナミのいかがわしいお店に連れて行ってくれたのも、そして大喧嘩をしたのもこの人だった。後輩に対しても同じ目線で接し、決して上から見下すことがない、素敵な兄さん。僕もこういうオトナになりたい、と心から思った。飲むとホントにぐだぐだになるけど、飲んでこそ本領を発揮する稀有な人だった。何だかこうやって過去形で綴るとお亡くなりになったみたいだけど、安心してください。今は大阪市内の小粋なバーで元気にマスターやってますから。先輩、その節は本当にお世話になりました。いつかまた大阪でお芝居やりたいです。
この劇団での活動を通して新しい人脈ができ、また別のフィールドで新しい人脈を形成していく。もちろんそれ以前にも素敵な出会いはありました。とにかく今は、ここ故郷の札幌で、公私ともにやるべきことをやっていく日々。
台詞覚えの悪い貧相なおっさんと思われ、コミュニケーションが満足に取れなくても、僕は僕なりに、今の環境に可能性を感じている。少しずつだけど。