これまでのこと。
人とのコミュニケーションが円滑に取れない僕にとっては、お芝居は唯一の自己表現ツールだ。けれどもこれ、たくさんの仲間の助けがなければ成立しないものだ。お酒の力を借りないと人と関われなかった僕には、何だか皮肉でもどかしい現象だ。
お酒に呑まれていた頃。堕落しきってどうしようもない生活を送っていた僕でも、飲めば饒舌になり僕自身で感じた、直感の表現をすることで、恐らくそのギャップが面白がられたのかもしれないが、とにかく周囲から受け入れてもらうことができた。年齢的にまだ若かったからということもあるのかもしれない。でも、それが通用した時期はごくごく限られていて、30代半ばを過ぎたあたりから「ただのダメ人間」と思われるようになってきたのが概ね自分で分かってきた。
それでも僕は変わらなかった。まだ10代の頃、 人と違うことをやって自由に生きている自分が誇らしくて、大学生活でこつこつ勉強したり、就職して下働きしている同級生の毎日を、正直見下していた僕がいた。そんな僕は、そのまま歳だけを重ねていった。
2010年の3月。大阪での暮らしが破綻して故郷へ帰ったとき、そんな自分の傲りと甘えに気づかされた。かつての同級生は父になり、母になり、仕事や家庭でも責任ある立場に就いていた。彼らはみんな、守るべきものを手に入れていた。僕だけが、何も成長できないまま取り残されていた。それでも僕といえば、努力する術さえ分からず途方にくれた。アルコールの量は減ったとはいえ、依然お酒に呑まれる毎日が続いた。
僅かな引き籠りの期間を経て仕事に就いたが、やりがいや達成感は得られなかった。定時になると逃げるように退社し、家に帰ってからは夜が明けるのを惜しむかのようにお酒を飲んだ。当然、アルコールの摂取量はまたしても増えた。挙句の果てにココロが壊れ、入院生活を送ることになってしまった。
僕はこれからどこへ向かうのだろう?
・・・そして、これからすべきこと。
Facebookの記事なんかを眺めていると、全国各地を拠点に表現の世界で活躍しているみんなの様子に触れ、何だか置いていかれたような、淋しい気持ちになることがあった。今はもう、さすがにそんなことはないけれど、一時はずいぶん自己嫌悪に悩まされた。
僕が大阪で飲んだくれていた頃、母が若年性認知症で倒れた。まだ50代半ばだった。幸い命に別状はなく、体は至って元気だったが、地元の父や兄がそのケアに苦労しているさなか、僕は相変わらずお芝居とお酒に浸かっている毎日だった。その贖罪の気持ちもあったのだろう。その後実家に帰って面倒を見たが、母の症状は緩やかに、でも確実に悪化していった。
劇団で役者や衣裳なんかやりながら、戯曲を書き、札幌の大学で芝居創りや朗読を教えていた母。芝居を教えるという、念願の仕事をようやく得た矢先のことだった。
2018年夏、父に胃癌が見つかった。既にステージ4だった。加齢と共に廃用も進み、思うように体を動かせなくなった父が入院生活を送るようになってからは、母を実家にひとりで置いておくわけにもいかず、兄夫婦のもとで暮らしたが、環境の変化のせいか認知症は急激に悪化し、特養探しに奔走することとなった。
幸い母は郊外の施設に入所することができたが、翌年8月に父が旅立った。77歳というのは正直、生き急いだ感は免れない。母にしても、もう二度とお芝居の世界に戻ることはできないし、それどころか僕が出演する舞台に足を運ぶことも不可能だろう。
それでも、僕の父と母がつないでくれだご縁は息づいている。父が亡くなって4ケ月後、僕は札幌東区・やまびこ座の舞台にいた。両親がまだ元気な頃にお芝居をご一緒した仲間の方々が11年前に旗揚げした劇団『座・れら』さんにお声がけいただき、かつて父や母がそうしたように、今度は僕がひとりの役者として作品づくりに加えていただくことになったのだ。普段は無愛想な裏方の職人さんたちも「ああ、クドウちゃんの息子さんかい?」と優しくしてくださった。何よりも、両親が歩んだ道の延長線上に僕が存在していることが、無性に嬉しかった。
これからもお芝居を創りたい。これまでのことを無かったものにすることはできないし、もう修復し得ない人間関係もある。けれどもその棚卸しの意味を込めて、これまでの怠惰な自分とサヨナラできるたったひとつの方法は、これからもより良いお芝居を創りあげていくことなんだ、と心に誓う。僕ができ得る、唯一の表現のチカラを信じて。
1982年頃か。
札幌白石にあった祖父母の家で。
左は叔父。
2000年頃の父と僕。
定山渓温泉にて、祖父の法事に
代えた親族慰安会の席。
春の陽差し眩しい旭山記念公園。
母は既に病が進んでいましたが、
父の腕を取る姿が微笑ましいです。
父の葬儀が済んでひと月。
父が青春を共に過ごした盟友の方々
に、歓送会をしていただきました。